ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

松尾 豊『人工知能は人間を超えるか』_感想

 

グーグルやフェイスブックが開発にしのぎを削る人工知能。日本トップクラスの研究者の一人である著者が、最新技術「ディープラーニング」とこれまでの知的格闘を解きほぐし、知能とは何か、人間とは何かを問い直す。

学習するとは

本書が刊行された2015年頃に、とある雑誌でシンギュラリティが特集されていて、映画の世界がついに現実味を増すのか!と夢中で読んだ覚えがあります。それから8年。世界は着実に変わりつつありますが、改めて本書を読むと、時代のおさらいといいますか、当時に著者が予測していた5~10年後の未来が現実になっているな、と思います。人工知能についてこれ程わかりやすく書かれた本は他にないのではないでしょうか。

まず、一つ目のポイントは「学習する」ということ。

そもそも学習とは何か。どうなれば学習したといえるのか。学習の根幹をなすのは「分ける」という処理である。ある事象について判断する。それが何かを認識する。うまく「分ける」ことができれば、ものごとを理解することもできるし、判断して行動することもできる。

人間もコンピューターも「学習する」ことの根底には「分ける」という処理だと著者はいいます。分けるためには、それが何かを認識することが必要で、ディープラーニングというのは簡単に言うと「それが何かを認識する」ことをどんどん概念化していってコンピューターが自ら類推できるようにすること。のようです。

私たちの脳も同じようなことを無意識に行っていて、赤ちゃんの脳はものすごいスピードで認知を繰り返して成長していきます。生物は、もともとは生きるために危険があるのかないのか、食べられるのか食べられないのか等、自分の周りの世界を1と0に分けて理解をしています。生物の神経細胞の広がりとコンピューターの演算がとても似ていることに驚きます。

人工知能は本能を持たない

では、ディープラーニングにより自分で世界を認識できるようになったコンピューターが、映画のターミネーター2001年宇宙の旅のように意思を持つ可能性があるのかというと、それは限りなくゼロに近いと著者は言います。自分自身を複製したいという欲求をコンピューターが持つためには、生命の持つ強い意志=本能が生まれる必要があり、現時点でのディープラーニングがその土台になるものではないということでしょう。

しかしながら、様々な分野にAIが導入されて、人々の生活は様変わりしてきました。電子決済は当たり前になりましたし、無人レジ無人運転、AIのオペレーションなどは生活に溶け込んでいます。いずれはAIなしには生活が立ち行かなくなっていくのではないかと思います。どうやら心配すべきはAIの暴走ではなく、AIをオペレートする人間の暴走のようです。戦争がAI同士で繰り広げられることになったらどうなるのでしょうか。

Hey,SiriとOK google!

人間とコンピュータの協調により、人間の創造性や能力がさらに引き出されることになるかもしれない。

人間とコンピューターとの融合が少しづつ進んでいるように思います。人間の脳とコンピューターが電子信号で動くという共通点を考えると、脳の中にコンピューターを入れる日も遠くはないのかもしれませんね。

近い将来に仕事がAIに置き換わってしまうのではないかと危惧する気持ちもありますが、学習するということにかけてはコンピューターのほうが得意ですが、創造性についてはもうしばらくは人間のほうが勝っているように思います。

AIが人間の身近なパートナーとして、これからますます生活を支えてくれることでしょう。私たちは、`siri‘に聞くだけじゃなくて自分自身の脳にも問いかけなくては、と思いました。

これからの未来を担う子どもたちに、人工知能のことをもっと知ってほしいな、と思います。それは人間の知能を知ること、これからの社会の生き方を探ることと同義ですね。

本書は、中学生の子どもも十分に理解できる内容だと思います。お勧めの一冊です。

 

2022年1月23日 読了

 

橘玲『無理ゲー社会』_感想

 

きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)をたった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。

知能と努力で成功できる社会

誰もがそこそこに生きて、そこそこに幸せになりたいと思い、子ども達にも当然のように大学までの教育を受けさせて「あなたらしさ」を大切にしなさい、と教えているのが私たちです。それは生まれや人種や性別で人生を決められることがなく、自分の知能と努力次第でなりたい自分になれる社会だと信じているからです。

一方で、人生に失望して死にたいと望む人が思いもよらない事件をおこす報道を頻繁に目にするようになりました。先日の、大学入学共通テストの朝に東大前で17歳の高校生が受験生を切りつけた事件は衝撃的でした。高校生は「自分も死のうと思った」と言っているようですが、本当の死はもっと孤独で静かに進みます。高校生は事件を起こすことで何かに気づいてほしかったのだろうと胸が痛くなりました。

著者は、知能と努力で自分らしく生きていけるという社会が、若者を追い詰めていると警告しています。それは逆転不可能な無理ゲーなのだと。

誰もが「自分らしく」生きる社会では、社会のつながりは弱くなり、わたしたちは「ばらばら」になっていくのだ。

画一的で個々の自由がなかった社会では「自分らしさ」を見つけることは自由の謳歌や個人としての成熟を約束したかもしれませんが、多様化が進み、人と違っていることが当たり前になった現代では、「自分らしく」あることが陳腐化しているようです。

努力をしたけど、無理だった。ということを身に染みて知ってしまったとき、誰のせいにもできず逃げ場のない「無理ゲー」社会を生き続けることになるのです。

子どもたちは溢れる夢の洪水に溺れそうだ、と著者は言います。

持つ人はたくさん持ち、持たない人は少ししか持たない 

そんなわけで、社会の二分化がますます進み上流国民と下流国民に分かれる、というのが著者の考えです。

本書の中には、その解決策もいくつか提示されていますが、富の再配分という観点ではベーシックインカムや富裕税を導入したとしても、人々の評判までを再配分することは不可能なため、結局は富ではない(もっと過酷な)ものの分断が起こると警告します。

本書の後半では、テクノロジーの進歩によって、こうした問題が解決可能かもしれない、という提示がされています。それは、たいそうSF的な響きの提案ですが、案外、近い将来に実現しているかもしれないと思いました。

ばらばらになったものは、別の形でまた一つになるのかもしれません。そうなると、もう「自分らしさ」は必要なく、本当の意味で何者でもない自分に解放されるのかもしれませんね。それは十分に豊かで安全で苦悩のないディストピアな社会の到来です。

納得もしつつ、少し心がざわつく読了でした。

 

2022年1月17日 読了

 

リンダ・グラットン他『ライフシフト‐100年時代の人生戦略』_感想

 

長ーい人生を生きるために

2016年に発刊されて以来ベストセラーになっている書籍ですが、ようやくじっくりと読むことができました。

本書で書かれている内容はここ数年のコロナ禍で更に加速したような気がします。医学が進歩し、人々が衣食住を満たす生活を送れるようになったことで、健康寿命がどんどん延びていて、私たちの子どもの世代には100歳まで生きる世界になっているだろう。そんな時代に今まで通りの人生設計ではやっていけないぞ。今から意識を変えて100歳まで生きる準備をしなくては。ということが書かれています。

私が特に共感したのは、リ・クリエーション(再創造)の必要性です。

人生100年となると、65歳で定年退職してる場合ではありませんね。もっと働かなくては、あまりにも老後が長くなりすぎてしまいます。自分のスキルが使えるのは今の仕事の範囲内だけで、この先、長く働くためには、もう一度、自分の身の振り方を再考する必要があります。自分には何ができるのか、強みは何か、それを考えて学びなおす時間が必要だと著者はいいます。

16年間も学ぶけど…

重要になるのは生涯教育だと思います。今の日本ではたいていの人が小学校6年、中学・高校で6年、大学で4年間は学ぶことになっていますが、それ以降は、自分を作り変えるために学ぶという行為をほとんどしていません。

仕事に必要なスキルは、どちらかというと働きながら習得していくのですが、基本的な地頭といいますか、物事の見方や考えるベースとなる思考の組み立て方など、子どものころに身に着けたはずのそういった力は、社会人になってから増強する機会はほとんどありませんよね。それでも、同じ仕事を続けるのであれば特に困らないわけですが、65歳を越えても有用感のある仕事を続けようと思うと、若い時に身に着けたスキルだけでは足りなくなるよ、ということです。

曖昧さを嫌わない態度を

例えば、今の仕事を定年退職した後に、何か違うことをして生きていこう、と思ったときに、自分の棚卸をするわけですけど、「あれ?なんもなくない?」と思ってしまいます。確かに、今の仕事ではそれなりに経験もあり、家族もいて、衣食住も足りているし、特に不満はないわけですが、その枠組みが外れたら、自分の価値ってなんだろう?と途端にわからなくなってしまいました。

新たな自分探しが始まるわけですね。

学生のころ、まだ何もなかった自分に大きな不安を抱えていて、仕事や家族を持つようなって、選択肢が少しづつ削られてきて、ようやく安心していたのですが、今度はその逆バージョンを生きるということです。持っていたものを少しづつ手放して選択肢を増やしていくという。

そして、リ・クリエーション(再創造)には、曖昧さを嫌わない態度、柔軟性、未知の活動に前向きな姿勢が大切だと著者はいいます。硬くなった頭をほぐさなくてはいけませんね。

幾つになっても新しいことを

学びなおしと言いましても、何から始めたらよいのかわかりませんが、とりあえず手っ取り早いのは「本を読むこと」「仕事関係以外の人と交流すること」かな、と思います。自分はこうである、こうでなくてはならない、という殻を取り払ってしまえば100年ライフも悪くないと思いました。

長い人生を幸せに生きるために、もう一度漂流したり迷ったり無駄なことをしたりする準備をしようと思えた書籍でした。

 

2022年1月15日 読了

 

淀川長治『映画の部屋』というわけで映画は、なんて話し上手なんでしょう。_感想

とにかく映画が観たくなる

淀川長治さんをご存じない若い方もおられるかもしれませんね。

昔、日曜日の夜は家族そろって日曜洋画劇場を観るのが定番だったころ、毎週、軽妙な語り口で映画の紹介をしてくれて、終わった後はくどくないのに心に染みる解説をしてくれるオジサンが淀川さんでした。淀川さんの解説があるのとないのとでは、映画の楽しみが倍以上違うように思います。

この書籍は、淀川さんが新作映画を紹介されていた番組「映画の部屋」の収録から、選りすぐりの映画が掲載されています。

文字を読んでいるというよりは淀川さんの軽快な語りをそのまま聞いているような感じで、ちょっとニヤニヤしながらすいっと読んでしまいました。

本書ではジャンルに分けて30本の映画が紹介されています。1990年発行ですので、そうとう古い映画ばかりですが、どの解説も映画愛にあふれていて、とにかく映画が観たくなるんです。作品のセレクトがどれも素晴らしいと思うのですが、私がもう一度観たくなったのは『ラストエンペラー』『月の輝く夜に』、まだ観たことがないので観てみたいのは『愛と野望のナイル』『グローリー』ですかね。

家族で映画を見ていた時代

ここ数年はコロナ禍ということもあり、映画館に足を運ぶ機会がめっきり減りました。今は映画館に行かなくても自宅で色んな映画が簡単に楽しめる時代ですが、映画をもっと身近に感じていたのは、映画館やテレビで家族で画面を観ていた時代だったように思います。

うちの両親は揃って映画好きだったので、007シリーズのほとんどは近所の映画館で観ましたし、大人の男女がベッドで何をするのか初めて知ったのは映画でしたね…

まあ、映画を観るのは数少ない娯楽だったわけですが、大人も子どもも関係なく銀幕に夢中でした。映画の中で胸躍る冒険をしたり、恋人にふられて傷ついたり、戦争で誰かを失ったり、どうしようもなく死にたくなったり、宇宙人と交信したり。そんな体験を家族と一緒にしてたのが映画館だったり日曜洋画劇場だったりしていました。

今は、家族でテレビを見ることも少なくなりました。自分の好きなコンテンツを自分だけの端末で自由に見ることができるなんて、昔では考えられない贅沢なんですけど、昔のほうが映画が面白かったな。淀川長治さんもいたしな。というのが正直な感想です。

さて、何 を観ようかな

本書を読んで、久しぶりに映画の魅力に気づかせていただきました。なんだか、不思議なんですが、本当に画面で淀川さんの語りを聞いているような気分で、これから映画が始まる前のポップコーンとコーラを抱えている気持ちになって読了しました。

今日は多分、映画を観ると思います。

それでは皆さん「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」

 

2022年1月10日 読了

 

 

 

 

山極寿一『ゴリラからの警告 人間社会ここがおかしい』_感想

 

人間も自然の一部

著者はゴリラ研究の第1人者で、京都大学の総長をされていました。

ゴリラやチンパンジーなどの類人猿と人間の共通点や違いを通して、現代の社会システムや教育を考えさせてくれる内容です。

生物は自分が生きるために自己主張をし、成長し、やがて死んでいく。私たちに制御できない自然の営みだ。それに寄り添い、共感することで、自分も生物であることを実感する。動物を完全には操作できないから、その主張を認め、相手を信頼しようとする。

ロボットやAIを相手にして、個食や個住をすることが増えている人間にとって、今の生き方はとても不自然な状態だと筆者は言います。

本来、身体化されたコミュニケーションによって信頼関係をつくるために使ってきた時間を、今私たちは膨大な情報を読み、発信するために費やしている。

まさにそのとおりですよね。

サルまねで野生の心を育てるべし

京都大学の総長として学生の教育にも携わっておられる立場から、学ぶということについても持論を展開されています。

サルまねと言いますが、実はサルは真似ができないそうなのです。

サルまねができるのは人間だけ。真似ることは、その動作の意味や背景を考えて実行するというとても高度な活動のようです。

人間にとって野生の心とはなんだろう。それは、仲間とともに未知の領域に分け入って新しいことに挑戦する心であり、おそらく幼児のころに形づくられる。

京都大学というと全国でもトップクラスの高い学力と変人が集まる大学ですよね。

「いかきょー」という呼び方がありまして、「いかにも京大生」という意味ですが、私も京大生や先生方とお仕事させていただくときに、心の中で、あ、いかきょーだわ。とつぶやいています。良い意味で他の大学と違う雰囲気ですよね。

それは、他に迎合するのではなく、自分の考えをもって他と交わり、共に創り出すという精神だと総長は仰っています。

必要なのは、常識にとらわれずに自分の考えをまとめ、それを確固とした根拠をもって説明することだ。

これは大学教育の在り方だと思いますが、これを行うためには、やはり義務教育や高等教育の段階で、しっかりと基礎的な知識や物事の見方、考えを言葉にする力を身に着けておくことが大切だと思います。読書が大切なのは言うまでもありませんね。真似ることは学ぶこと、と言いますよね。

人間は生まれついたときから、周囲の期待によって自分をつくっていく。両親から、親族から、地域から、学校から、次第にその期待が大きくなって、自分の能力に自信をもつようになる。人間の子どもは負けず嫌いだ。

以外にも、人間は動物と比べると負けず嫌いのようですね。これは、家族という自分の身近なコミュニティに受け入れられるかどうかが、相手の期待に応えられるかどうかで決まり、その関係は離れてもずっと維持されるからのようです。

動物では一度離れてしまったら、例え親や兄弟でも、元の関係に戻ることはない。ということで、印象的でした。

不在が許される世界へ

もっと、人と顔を合わせ、話し、食べ、遊び、歌うことに使うべきなのではないだろうか。

自分の周りの人や自然との関係性の中で自分が作られるのだとしたら、もっともっと体験することが子ども達には必要ですね。ネットの中での体験と、実際の体験とがうまくバランスするのがベストではないかと思いますね。

筆者は、人間は記憶によって不在を埋められる生物であるため、2拠点を行き来して暮らすとか、複数のコミュニティに入ることができるのだと言います。そして、色々な立場に自分を置くことによって、反対側から見える景色にも気づくことができるようになるのではないかと。

それは記憶というものが自分の体験した世界のなかに張りついていて、それを見たり感じたりしたときに生き生きとよみがえるからなのだと思う。

大人になっても自分の知らない世界をのぞいたり、初めての体験をしてみたり、誰かと真剣に意見を交わしたり、そういうことを続けていかなくては。と思いました。

また大学で学べたら素敵だろうな。

 

2022年1月8日 読了

ロイス・ローリー『ザ・ギバー』記憶を伝える者 感想_色を失ったユートピア

 

 

社会にうずまく悪や欲望、苦痛や悩みなどがすべえてとりはらわれた理想社会――喜怒哀楽の感情が抑制され、職業が与えられ、長老会で管理されている規律正しい社会――〈記憶を受けつぐ者〉に選ばれた少年ジョーナスが暮らすコミュニティーは、ユートピアのはずだった。けれども、理想の裏に隠された無味乾燥な社会の落とし穴に〈記憶を伝える者〉とジョーナスが気づいたとき、そこに暮らす人々が失っている人間の尊厳にまつわる記憶の再生を計ろうとする。2度のニューベリー賞受賞に輝くロイス・ローリーが贈る、衝撃的近未来ファンタジー

表紙袖裏より引用

人生は選択の連続でできている

大人になってから児童書を読むと新しい発見があるものです。

このお話は、遠い未来なのか別の惑星なのかわかりませんが、とあるコミュニティを舞台にしたディストピア小説

そこでは誰もが礼儀正しく、決まった生活をして、生まれる子どもの数も、子どもが育つ家族も、将来の職業もすべて最適になるよう細心の配慮がなされています。

誰も飢えることもなく、仕事や家族はそれぞれの個性にマッチしていて、不安や痛みを感じることなく、大人は子育てを終えたら、大人だけのユニット→老いの家→安らかな最期を迎えます。

痛みはなく、みんなが幸せで、持続可能な社会システム。

だけど、「記憶を受け継ぐもの」に選ばれた主人公は、過去の記憶を知るごとに、今の生活は無意味であることに気づいていく。

間違った選択をするかもしれない。それで飢えたり傷ついたり時には死んでしまったりするかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。

だけど選べないことのほうが不幸なんだ。と

 

選ぶことは楽しいけど恐しい

物語は主人公がある決断をすることで急展開します。

最後の結末に向かって、どんどん進んでいく主人公。その道は正しい選択だったのか…?

確かに私たちの人生は選ぶことの連続で、それで失敗したり落ち込んだり、嬉しくなったり悲しくなったり、とても平坦には進みません。

でも、もし何でも与えられる人生だとしたら…

自分のアイデンティティはどこに行くのでしょう?

失敗しても自分で考えたり感じたりしながら道を選ぶことに「喜び」や「誇り」や「責任」を感じて生を実感するのが私たちなんだと思いました。

一つを選ぶことは、もう一つを捨てること。生きることは削ること。

それを気づかせてくれる物語です。

 

それでも選んで失敗して生きていこう

私たちは自分が選んだものでできています。

もしかしたら、自分で選んでいるように感じているだけで、周りや社会に影響されているだけかもしれませんが、それでも私は何かを選ぶごとに自分らしさを感じます。

正解かどうかは、あまり重要ではないのかも。

それなら、たくさん捨ててたくさん拾おう。と思いました。

子ども達にも読んでみてほしい一冊ですね。

 

2022年1月6日 読了

 

 

 

山口周『ビジネスの未来』感想_ディストピアを彷彿させる豊かな高原

生活のインセンティブを探さなきゃ!

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山口周『ビジネスの未来』プレジデント社

www.amazon.co.jp

21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではなく、私たちが到達したこの「高原」をお互いに祝祭しつつ、「新しい活動」を通じて、この世界を「安全で便利な(だけの)社会」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくことにあります。

 

カバー袖より引用

 

経済成長はもうしないの?

コロナ禍で、世界中の経済が確実に何か大きな変化にぶち当たった2年間。

今年も、その3年目として、なんとなく変化が続くように思っていたところで、本書を読んで、「あ、やっぱりそうなんだ」と素直に納得しました。

これまでの右肩上がりはもうなくて、成長を前提にした社会システムは既に維持できていない。その通りだと思います。

じゃあ、何が今、人間を動かそうとしているんだろう?

著者は本書で、文明的価値から文化的価値へ。と書いています。

もう衣食住は足りていて人間が欲するところは、そこじゃあないんだよ。と。

なるほどですね。

 

仕事が遊び?

来るべき未来のために、毎日、通勤して、一日の大半を仕事と雑事に費やして、家に帰っても、なんだかんだと忙しい…。

でも、そう。老後には2000万は必要だと言うし、子供たちはますますお金がかかるし。

全ては未来のために今があるはず…。

という働き方は、もう現状に合ってない。と著者は書きます。

面倒くさい仕事から順にコンピューターに置き換わり、最後に残るのは創造的な活動になって、仕事は、今の概念でいう仕事ではなく、遊びになる。と。

わあお、なんて素晴らしいんでしょう。

でも、誰でもが個性を生かして創造活動ができるとは思えないし、できる子。と、できない子。が明らかに分かれてしまいます。

ちょうど、絵画の値段がうん十億円から数千円まで幅があるように。

私は…とても生き残れる気がしませんね。そのあたり、どうなんでしょう?

 

ベーシックインカム

そこで著者は、誰もが生きていくために必要なお金を享受できる「ベーシックインカム」の導入を提案しています。

つまり、いわゆる、これまでの、たくさん作ってたくさん売ろうよ。という経済活動ではなく、みんなから集めて、同じだけみんなに配分しようよ。そして、本当にお応援したい人やモノにお金を払おうよ。という理論です。

えーっと、そのもとになる財源は、税金とか寄付とかですね。

お金持ちになることに価値はなくて、今をいかに創造的に生きるか、に価値がシフトするという思想ですね。

うんうん。よくわかります。

ちょうど次男が、隣で、宿題の書初めをしていまして、

「なんで習字というものがあるのだ?誰も普段は筆で書かないのに。タブレットで勉強したら鉛筆すら使わないのに?なぜなんだ?」

とぼやいていたので、そういうことなんだよ。と納得した感じです。

「まあ、あれだよ。習字は既に文字を書く・伝えるという目的ではないのだよ。そこにあるのは、黒と白の世界。つまり、次男くんの創造性だよ。」

次男は、納得してませんでしたけどねー。そういうことです。

 

豊かな高原に立てるかな?

最後まで読み終えて、とても示唆に富んだ内容だったと思いました。

新年の一冊目として、読んで良かったな、と思いました。

でも一抹の不安というか、私自身が旧スタイルの社会で長く生きてきたからか、ちょっと想像が及ばない部分がありました。

働くことは生活の一部で、生産することが当たり前だとは思うのですが、資本主義を抜け出して、同じ気持ちで働ける(創造できる)だろうか…と。

生活のインセンティブはどこに。

そこを探すところから個人の責任になるという意味においては、「豊かな高原」はなかなか厳しい場所だな、と思いました。

はたして、この先、子ども達の世代は、高原にどんなふうに立つのでしょうか。

 

 

2022年1月2日 読了