ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

有川真由美『いつも機嫌がいい人の小さな習慣』_感想

 

大人なので自分の機嫌は自分でとろう

タイトルの通り、人間関係をスムーズにしたり、自分のテンションを上げるためのちょっとした考え方や行動のコツが88個の習慣として紹介されています。どれも、すぐに始められそうですし、いつもやっていることでも考え方ひとつで気持ちが変わるのだということを実感しました。

以前、上司だった方で、とにかく毎日ご機嫌な方がいました。いつもニコニコ、雑談をたくさんして面白いのですが、仕事はきっちりとやる、部下に注意するときはビシッと言う、判断は早くて的確。その時は自分も若かったので、私も仕事を続けていたら、自然とこういう人になれるのだろうか、と思っていましたが、その方と年齢が近くなってきて思うことは、機嫌が良いということは本人の努力なしにはできないことなのだ、ということ。その方の見えない努力に気づかされた思いがしました。

誰でも、仕事が忙しい時や、時間がない時はテンパッテしまって不機嫌になります。冗談を言える余裕もなくて、多分、顔もひきつっているのでしょう。そういう時こそ、その人の本性が見えるというか、周りの人に観察されているように思います。職場などで、部下に囲まれていたり、チームで仕事をしているときは、特に注意したいと思いました。あなたの隣の誰かにとって、あなたの機嫌がいいかどうかということは、割と重要な環境要因です。周りの人に機嫌をとってもらえるのは小学生くらいまででしょうか。大人は自分の機嫌を自分で取ることを習得しなくてはいけませんね。

「根回しに手を抜かない」

本書で書かれているのは、どれも納得できることばかりですが、いくつか紹介するとしたら、一つ目は「根回しに手を抜かない」です。根回しって実は好きではありません。はっきり言って面倒くさいと思うし、根回しをしないと上手くいかないこと自体が違うんじゃないのかなと思ったりします。自分の都合の良いように物事を進めたい、という点だけで見ると、確かに根回しは好きになれないのですが、事前にキーパーソンに相談したり情報を提供しておくことで、全体としてスムーズに物事を進めようとする、「配慮」の気持ちの表れだと考えると、断然、やる意義があるように思えてきます。

著者は、相手はどう思うか、と相手の立場になって考えることが根回しの基本だといいます。それは周りを大切にし感謝していることの表れであるとも。自分より相手を尊重するという視点に立って考えると、これもアリだなと思いました。

「休日は何もしなくてもいい時間をつくる」

本書の後半では、時間の使い方に関しての習慣がいくつか紹介されています。そのうちの一つ、「休日はなにもしなくてもいい時間をつくる」これは大事なことですね。予定のない休日が寂しくて、なんか損をしてしまったような気がして、週末はアレをしよう、あそこに行こう、あれも買っておこう、と色々と考えてしまって、結局、疲れてしまうことがよくあります。別に無理して出かけたり意味のあることをしなくてもよいわけで、休みの日は朝から顔も洗わずにずーっとYouTubeを見てだらだらしてもいいのです。大人になった今は、それをとがめる人もいないし何をしてもしなくても自分の自由ですよね。そう考えると、気持ちが少し落ち着きます。そして家族が休日にだらだらしていても気にならなくなります。そういう時間も必要だし、十分に意義のあることだと思います。

他にも、本当にちょっとした考え方の変換で、随分と気持ちが楽になるようなヒントがたくさん書かれていますので、毎日に余裕がないと感じた時にまた読み返してみたいと思いました。

とりあえず、今日は何もしないということをさっそく実践中。

 

2022年11月30日 読了

 

名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか 晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義』_感想

 

最強の心理学としての仏教

その強インパクトのタイトルに惹かれて思わず手に取ってしまった書籍です。仏教心理学講義とありますが、著者は精神科医。自身の職業上の悩みや迷いの中で東洋思想や瞑想に出会い、40代後半から本格的に仏教を学び実践を始めたという方です。

これまで仏教というのは、宗教の一つとしか思っていませんでしたが、本書を読むにつれて、それが心理学や哲学とも似通った学問の一つなのだと認識を改めました。世界には様々な宗教があり、それぞれが豊かな世界観や生死観を持ち、人々の精神を支える拠り所となっていますが、仏教が他の宗教や思想と違うところは、具体的な実践が示されている点だと著者はいいます。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いは、裏返せば「どうすればより良く生きていけるのか」ということです。その答えを自分で見つけるための具体的な指針をもたらしてくれるツールとしての仏教が紹介されています。

人間とは自意識に縛られる生きもの

仏教の実践として、心の平静を取り戻す「行」という取り組みが紹介されています。「行」は一言でいえば「ただやる」というもの。例えば著者は「眼鏡拭き」を行として、他のことは何も考えずにひたすら集中して眼鏡を丁寧に拭くという行為を実践しています。ポイントは何も考えずに自分の身体の動きや五感に集中すること。

私たちは、常に無意識に何かを考えています。目の前のことに集中しているように思っていても、実際は頭の中で別のことが次から次へと思い浮かんで、とりとめのない渦の中にいるようです。仏教の「行」はこの思想の渦を止めて「ありのまま」の現実を捉えるというのもの。落ち着いた平静の心で「今、ここ」だけを生きることができれば不安や後悔は生まれません。人間が動物とは違い、「今、ここ」ではなく過去や未来のことを思考してしまうのは「自分」という自意識が捨てきれないから。この自意識を薄くして「自分」と「対象」を一体化させることができれば、自分と世界との境界線が曖昧になり、私たちの心は現実以上の意味を世界に見出す必要がなくなります。

考えてみると、私たちの不安はいつも私たちの中から生まれてくるようです。

お寺は最上の心の洗濯空間

日本には各地に由緒あるお寺があり、掃き清められた境内や立派なご本尊を拝むことができます。仏教徒でなくても、こうした空間で静かに木々の音を聞いたり、線香の香りを嗅いでいると、それだけでなんだか清々しい気持ちになってきます。著者は心の洗濯の場として、日本にたくさんある仏教資産を活用しようと説きます。お寺でなくとも、家の仏壇でも、街角のお地蔵様でも、そこは他の場所とは違う空気がありますよね。小さいころ、私は仏壇の前で遊ぶのが大好きでした。何故かはわかりませんが、落ち着くんですよね。今の子どもたちは、そういう感覚があまりないのかもしれませんが、日本人に息づく仏教観のようなものなのかもしれません。

本書の後半では、こうした空間も活用して、日常生活に仏教を取り入れることで「心の平静」を感じることや、瞑想の方法などが具体的に書かれています。お経が意訳されずにサンスクリット語のままで伝わっている理由や、言葉のもつ力にも触れています。また大乗仏教の教えとして、悟りを開いた人だけの仏教ではないこと、他者への善行を通して自分が完成していくこと、などが書かれています。どれも示唆に富んだ言葉ばかりでした。

本書を通して、これまで、あまり親しみを感じてこなかった仏教が、ぐんと身近になった気がします。そうか、色々と考えすぎだったんだな、と思って、とりあえず目の前の仕事を何も考えずにやることから始めてみたいと思いました。これで、心の平静が訪れると良いのですが…。

 

2022年11月20日 読了

 

鈴木祐『無(最高の状態)』_感想

 

不安をどんどん増産してしまう心理

一言で言うと、不安や苦しみとの付き合い方を禅の手法を用いて分かりやすく教えてくれる書籍です。著者の本を読むのは初めてでしたが、巻末の引用リストには膨大な研究論文が掲載されており、多くの人が研究を重ねてきた成果が本書の言葉の一つ一つになっているのだな、と感心しました。

まず、前半では、人は何故、自ら不安や苦しみを生み出してしまうのか、という理由が書かれています。例えば、事故にあったりケガをしたり、仲間を亡くしたりする経験は人も動物も同じようにありますが、動物はその経験を引きずらないけれど、人間はいつまでも過去の出来事を考えてしまします。そして、あの時、ああしておけばよかったと自分を責めてしまう、つまり苦しみをこじらせてしまう特徴があるようです。これは人間特有の過去と今と未来をつなげて考えてしまう能力のためです。過去の延長線上にいる自分を私たちは「自己」として認識し、未来に向かって「自己」を継続していくために今の行動を決めています。

この認知が、今起こっていることをただの現象として客観的に捉えるのではなくて、自己との因果関係としてとらえてしまい、結果的に苦しみや不安を増産しているのです。「私は私である」という感覚は、時には「私は自分らしく生きてるだろうか?」という疑問や、起こった出来事に対して「だから私はダメなんだ」というマイナス評価など、とかく自分のことを考えてしまいがちです。自己にこだわる人ほどメンタルを病みやすい傾向があるようです。

どうしたら「自己」を薄くできるのか

では、どうしたら起こった出来事をあれこれと考えずに受け入れることができるのでしょうか。本書では、禅の修行の手法を用いた精神トレーニングが詳しく紹介されています。

私たちの脳は、「考えないでいる」ということが苦手です。何かを見たり聞いたりしたら、自分では命令していないのに、勝手に頭が考え始めています。気が付くと、どんどんと思考が膨らんで、現実に起こったことの何倍も大きくなっています。精神トレーニングでは、例えば、意識を自分の呼吸だけに向けて他のことに向かう意識をなくす、というような方法が紹介されています。他にも多数紹介がありますので、自分に合った方法が実践できるようになっています。

そして、何も考えない状態=「無」の境地になると、過去の自分と今の自分のつながりが薄くなり、「わたし」を規定する必要がなくなります。「わたし」はただ存在しているだけになり、今起こっているありのままを感じられるようになるわけです。

過去からつながらない「わたし」は何者か

無我の境地になることで、過去の自分とのつながりが薄くなるのであれば、今ここにいる自分を規定するものは何だろうか、と考えてしまいます。著者は、無我がもたらす効用について後半部分で詳しく述べています。幸福度の上昇、意思決定力の向上、創造性の上昇、ヒューマニズムの向上などなど、無我によって私たちは、どのようなことに対しても「永遠の初心者」となり、「変わっていくことへの限りない受容性」を持つことによって、「圧倒的な自由」が得られるということです。

では、そうなったとして、私は一体何者なのか。の問いに他する答えは、やはり私は「わたし」ということでしょうか。無我の境地を得たからと言って、自分の経験したことの記憶がなくなるわけではありません。ただ、記憶を引っ張り出してきて、今の自分と照らし合わせて考えることが無くなるだけです。そのうえで、今の自分が取る行動や発言は、やはり「わたし」であるとしか言えません。この一瞬一瞬において、私は何事にも初心者で、でもどんどん変化して、それゆえにずっと自由でいられる存在だということですね。

読めば読むほど深いなあ、と感心しきりです。何事も変わっていくということの不変さを感じますね。

 

2022年11月12日 読了

真田正明『朝日新聞記者の書く力 始め方、終わり方』_感想

 

文章を書くのが嫌になったときに

仕事で書く文章は、ほとんどが事務的なものなので、特に構成に悩むとか表現をどうしようとか考えることがないのですが、時々、一般の方に、難しいことを分かりやすく、読みやすく伝えないといけない、かつ、文章はシンプルにダラダラと書かずにポイント絞って、要点を見やすくして、みたいなオーダーを受けることがあり、その都度、まいったなーと思って文章を書くのが嫌になっていました。

本来、文章を書くことは楽しいことですよね。自分の頭の中にある考えやストーリーを、文字にしていくうちに自然と頭の中が整理されて、相手に伝えたかったことも、文字にしてみてようやく輪郭がはっきりしてくるというか、クリアになっていくような爽快感があります。

でも、仕事で書く、事務的ではない文章というのは、なんだかとても厄介で、いつも嫌になってしまうのです。本書を読んで、それは自分が書きたいと思うことを書いていないからなのだ、と気づきました。

当たり前のことですね。書きたいと思っていないことを上手に書こうと思っても無理な話です。

読み手を惹きつける文章とは

本書は新聞記者として長年記事を書いてこられたノウハウが色々と紹介されています。

前半は新聞記事のノウハウ。いつ、どこで、誰が、何をした、ということを正確に伝える文章には書き手の気持ちや心情は必要ありません。私たちが日ごろ仕事で多く書いている事務的な文章も同様です。

一方で、新聞でもコラム欄や社説、朝日新聞なら天声人語などは、通常の記事とは違います。読み手に読んでもらえる文章を書かなくてはいけないし、そのためには書き手の書きたいこと、伝えたいことがないと書けません。

後半は、小説や詩が多く紹介されていて、夏目漱石太宰治三島由紀夫村上春樹などの文章のどこが魅力的なのか、読者の心を掴むのか、というのが良くわかります。

冒頭はシンプルに。季節感を出して。語感を磨いて…などなど、読んでいると、それらの作品が読みたくなってしまいます。なるほど、小説や文学作品の魅力は、もちろんストーリーの面白さや登場人物の描写の深さみたいなものもありますが、何よりも「言葉自体を味わう喜び」みたいなものが大きかったのだと気づきました。

言葉の味わいを大切にしたい

教科書に載っていた小説で、高校生のころ好きだったのが中島敦山月記です。ストーリーも面白いのですが、なによりも文体が好きでした。シンプルで力強い文体は、今も心地よく感じます。人それぞれ、感性の合う文体、言葉というのがあるような気がします。詩を読むと、特にそれを感じますね。何が良いのか上手く説明できないけど、この人の言葉が好き。というのがあると思います。

大人になって、実用的な本をたくさん読むようにはなりましたが、言葉を味わって読むことは、ほとんどなくなりました。「言葉」=「情報」としてしか、捉えていなかったと思います。今は情報と時間が大切な社会ですから、少しでも効率良く、言葉は少なく情報量は多くして、文章ではなくて写真や動画で伝えることが主流になっていますが、言葉の味わいというものも忘れてはいけないと思いました。

子どもには本をたくさん読んでほしいと思います。知識を増やすためではなくて、言葉の中にある、人々が蓄積して伝えてきた感性みたいなものを感じとる力をつけてほしいと思います。

そして、自分自身も、日ごろ簡素な文章しか書かないし読まないので感性が随分と鈍っておりますが、言葉を味わうという気持ちを忘れないようにしたいと思います。

でも、仕事で書く文章は、淡々と事実を分かりやすく伝えるということに気持ちを注いで、考えすぎずに書くことにします。書くのが嫌になったときは、とりあえず没個性で淡々と。

 

2022年10月30日 読了

齋藤 孝『使える!孫氏の兵法』_感想

 

勝たなければ意味がない

有名すぎるかもしれない「孫氏の兵法」ですが、実はこれまであまり興味がなくて、いったいどういう点が優れているのか知らないまま半生を送ってきました。本書は、そういう深く理解しない読者でも、孫氏の兵法を現在の仕事に生かせるように、かなり嚙み砕いて書かれています。

孫氏の兵法とは、勝つことにとことん拘って書かれた戦術書だけあって、正々堂々と正面から戦うことは勧めておらず、いかに相手の盲点をつくか、とか、不利になったら退け、とか、自分に有利な環境を整えよ、とか、そういう実用的なアドバイスが散りばめられています。まさに、強いものが勝つんじゃない、勝ったものが強いのだ。ということですね。

勝つよりも負けないための極意

印象に残ったフレーズを少し紹介したいと思います。

『勝つべからざるは己にあるも、勝つべきは敵にあり。ゆえに善なるものは、よく勝つべからざるをなすも、敵をして勝つべからしむことを能わず』

負ける理由は自分にあるけど、勝つ理由は敵にあるので、まずは負けないようにすることが大切という意味のようです。これを仕事に置き換えると、まずは守備を固めよ、ということでしょうか。得意分野を伸ばすことも大切ですが、自分より優れている人はたくさんいるわけで、それよりも自分の不得意を少なくすることの方が負けない、つまり仕事が上手く進むようです。確かに、やたらと特定分野だけに詳しい若手社員よりも、まんべんなく事務仕事がこなせる若手の方が重宝しますね。

特に、組織で戦う(働く)うえでは、攻撃力を磨くよりも、誰もが平均的な仕事をこなせるように、守りを固める方が良いように思います。まずはそこがベースラインで、尖らせるのは次の一手という感じでしょうか。

これは子どもの教育でも大切なことだと思います。得意な科目を伸ばしてあげた方が良いように思いますが、やっぱり国語も算数も理科も社会も、ある程度のレベルまでは平均的にできた方が視野が広がるように思います。なんというか、全体を通して俯瞰的に物事を見たり考えたりする力のベースとなるのは、何でも興味をもって、何でもある程度は出来る、というゼネラルな能力だと思います。基礎基本が、やはり大事ですよね。

地続きで攻めて領土拡大

『遠き形には、勢均しければもって戦い挑みがたく、戦わばすなわち不利なり』

遠くの自分の知らない土地に攻め込むことは戦いに不利である、という意味で、とても当たり前のことではありますが、やはり自分が全く知らない分野を開拓するよりも、自分の出来ることから始めて、すこしずつ出来ることを増やしていくのが正攻法であるということです。

転職を考えるにしても、今の仕事を踏み台にして挑戦できることが良いようですね。また、他部署に異動する場合であっても、前部署での経験を生かして、少しずつ、その部署での自分の存在意義を作っていくのが良いように思います。私も今の部署で何ができるのかと、悩むことが時々あるのですが、気負わずに自分にできることを着々とやっていくようにしたいと思いました。

さて、明日からの仕事も基礎基本を大事にコツコツいきましょう。

 

2022年10月15日 読了

 

 

 

 

関屋裕希『感情の問題地図~「で、どう整える?」ストレスだらけ、モヤモヤばかりの仕事の心理』_感想

 

日曜日の夕方に読んでおこう

仕事にストレスはつきものですね。気が付いたら、気分が落ち込んでいることがしばしばあります。大抵は、食べて寝たらスッキリするのですが、時々、何日も不安が消えないとか、理不尽な気持ちが収まらないとか、そういうときもあります。それが誰かのせいにできることなら良いのですが、部下や上司を心の中で責めたとしても、結局、自分以外の人間は変えられないので、仕事はいつまでも片付かないし、モヤモヤした気分もなくならないし…

本書は、「あー。月曜日が憂鬱だ。」と思ってしまう日曜日の夕方にさらっと読むのに向いていると思います。本当に、さらっと読めてしまいますので、けだるい昼下がりにビール片手にパラパラと読んでしまいました。

ネガティブな感情のオンパレード

本書で取り上げているのは、怒り、悲しみ、落ち込み、不安の4つの感情。それぞれの感情について、その感情が湧いてくる理由と対処法が分かりやすく書かれています。

対処法と言っても、受け流すとか視点を変えるとか、そういう感じで全く難しくないので明日からでも取り入れられそうな気分になります。その中で、私が、最近の自分事として気になっている「不安」の章について、少しご紹介したいと思います。

なぜ人は不安になるのか。ずばり、「わからないから」に尽きます。

これまで経験したことがない事、予測ができない事、自信がない事などに直面すると、急に不安の感情が湧いてきて、心臓がドキドキしてしまいますよね。この感情を感じてしまうのは、「失敗しないように上手くやりたい」という気持ちがあるためで、私たちは不安があるおかげで物事をスムーズにこなせている面もあるようです。

分解して俯瞰すればネガティブな感情は味方にできる

さて、その対処法として、まず「わからない」ことを分解してみること。何がわからないのかが、わからない。という時がありますが、そうなると一歩も前に進めなくなってしまいます。まずは「わからない」事を書き出してみて、明確にできること、実はわかっていること、本当にわからないこと、に分類してみると、自分が思う以上に、実は対処法が分かっていて、明確になっていることがあることに気づきます。そして、まずはここから手を付けて行動してみると、「不安」が少し小さくなるようです。

次に、俯瞰してみること。これは誰かに不安な気持ちを話してみると、聞いてもらうだけで、なんとなく落ち着いてきて、なんだ、そんな簡単なことだったのか、と気づくことがあると思いますが、渦中の自分を俯瞰して捉えることで、対処法に気づいて安心できるのだと思います。

いずれにしても、怒りや、悲しみ、不安という感情を排除するのではなくて、受け止めて、分解して、小さくしてしまって、行動に移してしまうのが良いようです。何事も、始める前は不安で一杯ですが、いざ始めてみると、思ってたよりもスムーズに進んだり、簡単だったりすることがありますよね。仕事も、どうせ避けて通れないわけですし、自分以外の人間は変えられないのだから、諦めて、まず分解して、ちょっとづつ手を付けるのが良いのでしょう。そんな自分を、「大人になったものだ」と褒めて伸ばすことにして、明日もお仕事がんばりましょう。

 

2022年10月2日 読了

浜田寿美男『「私」をめぐる冒険ー私が私であることが揺らぐ場所から』_感想

 

私はいつから「私」だったのか

生まれた時から私は私だったと思っていましたが、よく考えてみると、自分を私だと認識しだしたのは赤ちゃんの時ではないはずです。幼児のころなのか…? でも果たして子供のころに認識していた「私」と、大人になった今の「私」は連続した同じものなのか…?

本書を読み始めると、当たり前に感じてきたことがどんどん剝がされていくような感覚に陥ります。私はいつから「私」になったのか。本書では、その疑問について、自分以外の他者を自分の中に持つことで成長する子どもの発達の視点から、自分の中に他者がいない自閉症の人の視点から、あるいは冤罪となった人の嘘の供述をしてしまう心理から、裁判所の「私」を排除することで公平な裁きをしようとする場所の特異性から分析をしています。内容としては難しくもありますが、言葉が平易で、なによりも著者の「あるがまま」な感じが言葉に表れていて読みやすい文章だと思います。前半は特に、納得する点が多く面白く読めました。後半は、少し理解が追い付かないところがあって私には難しく感じました。

さて、「私」はいつから「私」だったのか、という問いの答えですが、端的に言うと「私」と「あなた」という認識が生まれた時が「私」の生まれた時ということでしょうか。

話すことには聞くことが組み込まれている

著者は発達心理学、供述心理、法心理学の専門家で、言葉や会話を通した心理学を研究されている方のようです。印象的だったのは、「ことばには視点が張り付いている」という言葉。教育の中で、「発達」という言葉を使うとき、それは大人の側から見て、何か足りていないものが習得されるとか、できるようになるとか、満たされる方向に進むこと、という概念があります。でも、それは成長する子どもの側から見ると、本当にそうでしょうか。子どもたちにしても、大人である私たちにしても、何かが足りていないから成長しているわけではなくて、今ここにある自分の身体が持っている手持ちの力で何とか今を生きていて、その結果が後から見たら成長になるだけのことです。当たり前のことですが、教育、とりわけ学校教育では、この視点が忘れられていることがあります。学校では、将来のために様々な力を子どもたちに着けさせたいと考えているのですが、その「将来」はどうして「今」ではないのか。学校の勉強が大学に入学したとたんに不要の長物になるのも、発達を大人の側の視点で見ているからかもしれません。

また、自分が話して、相手がそれを聞くとき、私は話していると同時に相手にどんなふうに伝わるのかを想像して聞き手になっています。逆に相手の話を聞いているときも、相手が何を伝えようとしているのか、聞きながら相手の発話の気持ちを考えて話し手になっています。こうした自分の中に相手の場所があり、相手の中に自分の場所があるというやり取りが対話の中に生まれて、これを「自我二重性」という、単に言葉のやり取りに終わらない能動と受動の両面を同時に持つ構図ができています。これこそが、私が「私」であるということの形ではないかと著者は書いています。なるほど。

我、行動する、ゆえに我あり。

デカルトの言葉は「我、思う。ゆえに我あり」

著者は、この言葉よりもヴァレリーの「我ときどき思う、ゆえに我ときどきあり」の方が洒落ていると書いています。思っていない時でも、自分は存在しているわけで、それが自分自身に認識された「私」になっているかどうかは分かりませんが、実際は思っているのはときどきで、そうじゃなくても私たちは生きていますものね。

もう少し前向きに自分というものを捉えるならば、「我、行動する、ゆえに我あり。」ということになるかと思います。本書をとおして、対話というものの不思議というか、言葉の力というか、私が私を感じることの力強さみたいなものを感じました。人は人の中で生きているのだな、ということを改めて実感します。良い勉強になりました。

 

2022年10月1日 読了