ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

浜田寿美男『「私」をめぐる冒険ー私が私であることが揺らぐ場所から』_感想

 

私はいつから「私」だったのか

生まれた時から私は私だったと思っていましたが、よく考えてみると、自分を私だと認識しだしたのは赤ちゃんの時ではないはずです。幼児のころなのか…? でも果たして子供のころに認識していた「私」と、大人になった今の「私」は連続した同じものなのか…?

本書を読み始めると、当たり前に感じてきたことがどんどん剝がされていくような感覚に陥ります。私はいつから「私」になったのか。本書では、その疑問について、自分以外の他者を自分の中に持つことで成長する子どもの発達の視点から、自分の中に他者がいない自閉症の人の視点から、あるいは冤罪となった人の嘘の供述をしてしまう心理から、裁判所の「私」を排除することで公平な裁きをしようとする場所の特異性から分析をしています。内容としては難しくもありますが、言葉が平易で、なによりも著者の「あるがまま」な感じが言葉に表れていて読みやすい文章だと思います。前半は特に、納得する点が多く面白く読めました。後半は、少し理解が追い付かないところがあって私には難しく感じました。

さて、「私」はいつから「私」だったのか、という問いの答えですが、端的に言うと「私」と「あなた」という認識が生まれた時が「私」の生まれた時ということでしょうか。

話すことには聞くことが組み込まれている

著者は発達心理学、供述心理、法心理学の専門家で、言葉や会話を通した心理学を研究されている方のようです。印象的だったのは、「ことばには視点が張り付いている」という言葉。教育の中で、「発達」という言葉を使うとき、それは大人の側から見て、何か足りていないものが習得されるとか、できるようになるとか、満たされる方向に進むこと、という概念があります。でも、それは成長する子どもの側から見ると、本当にそうでしょうか。子どもたちにしても、大人である私たちにしても、何かが足りていないから成長しているわけではなくて、今ここにある自分の身体が持っている手持ちの力で何とか今を生きていて、その結果が後から見たら成長になるだけのことです。当たり前のことですが、教育、とりわけ学校教育では、この視点が忘れられていることがあります。学校では、将来のために様々な力を子どもたちに着けさせたいと考えているのですが、その「将来」はどうして「今」ではないのか。学校の勉強が大学に入学したとたんに不要の長物になるのも、発達を大人の側の視点で見ているからかもしれません。

また、自分が話して、相手がそれを聞くとき、私は話していると同時に相手にどんなふうに伝わるのかを想像して聞き手になっています。逆に相手の話を聞いているときも、相手が何を伝えようとしているのか、聞きながら相手の発話の気持ちを考えて話し手になっています。こうした自分の中に相手の場所があり、相手の中に自分の場所があるというやり取りが対話の中に生まれて、これを「自我二重性」という、単に言葉のやり取りに終わらない能動と受動の両面を同時に持つ構図ができています。これこそが、私が「私」であるということの形ではないかと著者は書いています。なるほど。

我、行動する、ゆえに我あり。

デカルトの言葉は「我、思う。ゆえに我あり」

著者は、この言葉よりもヴァレリーの「我ときどき思う、ゆえに我ときどきあり」の方が洒落ていると書いています。思っていない時でも、自分は存在しているわけで、それが自分自身に認識された「私」になっているかどうかは分かりませんが、実際は思っているのはときどきで、そうじゃなくても私たちは生きていますものね。

もう少し前向きに自分というものを捉えるならば、「我、行動する、ゆえに我あり。」ということになるかと思います。本書をとおして、対話というものの不思議というか、言葉の力というか、私が私を感じることの力強さみたいなものを感じました。人は人の中で生きているのだな、ということを改めて実感します。良い勉強になりました。

 

2022年10月1日 読了