ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

土井健郎・斎藤孝『「甘え」と日本人』_感想

 

「甘える」ということの難しさ

英語には「甘え」という言葉がないそうです。欧米は愛情表現が豊かで、子どもは親に安心して甘えていて、夫婦はお互いに愛し合って信頼しあっているようなイメージがありますが、日本語の「甘える」とか「甘えさせる」という意味を持つ単語がないそうな。子犬が人に甘えて、それを可愛がるのは『愛撫する』と表現するらしく、ちょっとニュアンスが違いますね。

本書では、著書に「甘えの構造」を書かれた土井健郎さんと、学生のころに「甘えの構造」を読んで大きな感銘を受けた斎藤孝さんが、対談形式で現代に広がる人間関係の病や、子どもの成長と甘えの関係、日本人の身体感覚などを論じています。

「甘える」という行為は、例えば親と子、飼い主とペット、先生と生徒、時には上司と部下、友達同士でも、自然に出てくる感情だと思います。ただし、前提にあるのは、「甘えられる」という安心感。甘えるためには、甘えても良いという共通の空気感が必要ですが、私たちの人間関係を考えてみると、以前よりも、そうした距離感が遠くなっているような気がします。甘え上手な人が減って、自分勝手な人が増えているようにも感じますね。

幼い子どもは存分に甘えさせる

やはり、何も考えずとも、自然と甘えられるのは幼い子どもの頃だと思います。親に守られている安心感、何を言っても何をしても許してもらえるという信頼感、甘えることが心地よく、また甘えさせる方も甘えてもらえることに喜びを感じます。

例えば、これが幼いころから自立を求められて、甘えても良い空気感がなかったとしたら、あるいは家庭の中に寛いだりダラダラするような「甘い」空間がなかったとしたら…私たちは親の顔色を窺い、「甘える」ということに勇気が持てず、自己表現としての「甘え」ができないまま子ども時代を終えることになってしまいます。そして、その人間関係のひずみは、大人になって社会に出てからも人と信頼関係が上手く結べないという傷跡を残してしまうようです。

精神科医である土井氏は、現代に多く見られる精神疾患は、先天的な脳の異常を除くと、ほとんどが人間関係の中で発生する病であると言います。つまり、小さな頃に、甘えることによって培った人間関係の土台が、その後のコミュニケーション力や自己有用感の育成にとても重要なのです。

ですので、小さいお子さんがいるご家庭は、ぜひ家庭の中に「甘い」空間と「ゆるい」空気感を作っていただきたいと思います。そこでは力を抜いてもいいし、頑張らなくてもいい、褒められることなんて何も出来なくてもいい、そういう時間や空間が子どもにも大人にも必要ですよね。斎藤氏は、眠る前に子どもに本を読んであげる時間が最高の「甘え」の時間だと言います。親も子供も寛いで、布団のなかでくっついて、小さな間だけの貴重な時間です。

子どもは親が思うよりも早く大きくなりますので、どんなに甘えさせても、小学校高学年くらいになると、もう親には甘えて来なくなります。だから、「甘ったれになるのでは」と心配せずに、小さいうちにたっぷりと人間関係の練習をさせてあげてほしいです。

日本人の身体感覚とは

日本人にとって「甘え」の空間が必要なものだとすると、緊張する「場」の空間も同様に重要な役割があると斎藤氏は言います。学校では、新学期には始業式があって、授業の始めと終わりには起立・礼の号令があって、他にも入学式とか離任式とか、とにかく礼をして始まる儀式がとても多いですよね。子どもの頃から、そういう儀式を日常的に行っていたからかもしれませんが、今も、「起立・礼」という号令をかけられると、気持ちが少し引き締まる感じがします。また、書道とか茶道とか華道とか、剣道とか柔道とか、〇〇道と名前が付くものも、始める時から終わる時までの型や手順に大きな意味があるように思います。礼をして始めて礼をして終わると不思議と清々しい気分になりますよね。

こうした日本ならではの身体感覚、緊張感のある「場」をつくる力が、自分の中での「中心」を捉えて、まっすぐに立つという感覚の育成と繋がっているようです。オフィシャルな場では適度な緊張感を、プライベートな場では甘えられる空気感を、こうした感覚が日本人ならではのものだと思いますが、残念ながら、物事の区切りがだんだんと曖昧になって、適度な人間関係の保ち方も分からなくなってきているように思います。

さて、お正月ですね。

まだ、初詣に行ってないのですが、今年は鳥居をくぐるとき、神様の前で手を合わせる時、いつもよりきちんとお辞儀をしたいです。そして、久しぶりに帰省した子ども達とは、もう十分すぎるほど大きくなっているので難しそうではありますが、つかの間の「甘え」の時間を共有できたら良いなと思います。

今年一年、自分の「中心」を自覚できる年になりますように。

 

2023年1月2日 読了