ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

鷲田清一『わかりやすいは わかりにくい?臨床哲学講座』_感想

 

よくわからないことを少しずつ考えてみる

 著者は臨床哲学として、対話の中から人々と一緒に考えていく哲学の第一人者。著者の書籍はどれも読みやすく、面白いと思いますが、本書は特に、1話づつ完結というか、小さな「分かっているようで、実はよくわからない」ことをテーマにしたエッセイ的なお話が13話書かれています。一気に読んでもいいと思いますが、今回は、サウナタイムの友として1話ずつチビチビと読みすすめたので、読了に1か月以上かかってしまいました。

 第1話の「問いについて問う 意味について」から第13話の「わかりやすいはわかりにくい? 知性について」まで、人生の半ばを過ぎて、何となく老いを感じながら生活を振り返ってみた時に、そういうことなのかな?と気づいたり、考えたりするためのヒントがたくさん書かれています。いろいろ経験をしてみて、初めてわかることもありますし、いろいろ経験してみても、やっぱりわからないこともありますよね。著者の伝えたいことは、わからないことを、わからないまま理解することの大切さ、それができるためには、忍耐力と好奇心と知的体力が必要で、ある意味、大人として成熟していなければできない、というメッセージではないかと思います。

与えられる社会の危うさ

 第12話の「未熟であるための成熟? 市民性について」では、社会サービスが充実したことによって、私たちの市民性が失われつつあることの危うさが書かれています。執拗にクレームを言う客。役所の窓口で、税金を払っているのに納得できない、と文句を言う住民。私たちの生活は、あらゆることが社会化されて、自分でしなくても「サービスを受ける」という形で何でもできるようになりました。その半面で、例えば食べ物を作ったり、採取したり、衣服を作ったり、家を建てたり、葬儀を執り行ったり、老人の介護をしたり、以前はそれぞれの家や地域で行われていたことが、自分たちだけでは実行できなくなってしましました。家族の中の誰もが、それらの生活のスキルを伝承していなくても、外から福祉サービスや育児サービスを購入することで生活が成り立つような便利な社会になった半面、私たちはサービスの享受者という「与えられる者」になっていまったのではないかと著者は警鐘を鳴らします。

 役所にサービスの充実を求めてクレームを言う市民、なんとかしてくれと訴える客、もともと市民性というものはサービスを享受する側ではなく、自治を自ら行う「主体」であったはず、と著者は指摘します。自分たちの出来ること(出来たこと)を自分たちで失っているような、そんな危うさが現代にはあります。著者は「基礎体力の衰退」と表現しています。

知性とは、思考の肺活量

 最終章では、本書のタイトル「わかりやすいは、わかりにくい?」ということの意味が解説されています。著者の上手い表現を引用すると、知性とは、わからないことをわからないままに、それでも深く思考すること、と言えると思います。著者は、それを「思考の肺活量」と表現します。

 例えば、水の中に潜るとき、肺活量が少ないとすぐに息が切れてしまって、水面に浮かんでしまいます。思考も同じで、よくわからない現象に対する耐性がないと、とにかく分かりやすい答えを求めて、自分の知っている枠の中にはめ込んで解釈しようとしてしまう、と著者は言います。今は、何でも分かりやすい表現、分かりやすい考え方、分かりやすい説明が求められていて、私たちは分かりやすい事柄を「情報」として得ることは当然だと思っています。学校で子どもたちに教えていることも、いかに知識を分かりやすく説明して分かりやすく伝えるか、ということのように感じます。

 でも、「知性」とは、そうした「情報」の伝達だけではないはずです。情報をもとにして、そこからさらに深く考えていくことが「思考」であり、思考によって身につくものが「知性」ではないかと思います。情報の受け手、サービスの受け手、知識の受け手に慣れてしまった私たちは、答えの出ないことを分からないままに考える「知的体力」、著者の表現では「肺活量」を減らしてしまっているのかもしれないですね。

 では、どうすれば「分かりにくい」ことから逃げずに考えられるようになるのか。著者は、「分かりやすさの誘惑にあらがって」「見えているのに誰も見ていないものを見えるようにする」ために、自分のまなざしを組み替えて、自分の世界の外側を見てみよう、と提案しています。そうやって自分自身を更新していく経験が大人には必要なのです。凝り固まった知性をほぐして、もっと柔軟に物事を見てみなくてはいけませんね。

 

2024年2月17日 読了