ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

橘玲『上級国民/下級国民』_感想

 

知識社会の課題あれこれ

 著者は「言ってはいけない」がベストセラーになった方。こちらは、その続編というところでしょうか。過激な言葉選びとか、少し表現が気になるところはありますが、著者の主張はとても分かりやすく納得のいく内容で、時流を知る読み物としても面白く楽しめます。いろいろと考えさせられる箇所もありましたので、本書を入門に社会学や経済学、統計学の書籍も読んでみたくなるような、導入書だと思います。

 本書では、主に現代の知識社会化した世界における、上流の人々と下流の人々との比較が論じられています。一部の人が豊かになり、大多数の人は貧しくなるという現代の不思議な現象が「モテ」「非モテ」など分かりやすい切り口で書かれていますので、社会学に興味のない方も、面白く読めると思います。かくいう私も、自分自身が上流だとは思わないけれども、下流だとも考えていなかったので、結婚できる、できないなど、そんな個人的なことも実は社会の流れに引っ張られているのだということに気づいて、なるほど、社会学は面白いなと改めて自分自身の生き方を考えるきっかけとなりました。

「モテ」と「非モテ

 日本のアンダークラスについて、著者は、その大半が軽学歴の若年層だといいます。中卒や高卒で軽学歴のフリーターとなった人たちは、ほとんどポジティブなものがなく、希望を持てないまま年を重ねていく。軽学歴の女性ほど専業主婦の願望が高く、早くに子供を産み、婚姻が破綻して母子家庭に陥りやすい…などなど、少し偏りのある分析かもしえませんが、実際にそういう方々が役所のサービスを受けて生活していることも事実です。こうした学歴による分断は、誰かに強要されたものではなく、本人の選択に基づくものであるからこそ、なお一層、格差が広がっているとも言えます。

 以前の社会は、カエルの子はカエルの社会でした。現在でも医者の子供は医者になりがちですし、サラリーマンの子供はサラリーマンになりやすいような気はしますが、基本的には、将来どんな仕事に就くのか、どういった教育を受けるのかは、本人の努力で選び取ることができるとされています。つまり、軽学歴になった人たちは本人の意思でその状態を選んだわけであり、だれの責任にもならないところが、構造的な格差を助長しているように思います。自分のことは自分で、実力のない人は実力のないままに、というのが現代社会の前提になっています。

 そうしたなかで、魅力的な「モテ」となって子孫を残せる層と、「非モテ」となって社会から排除される層に分かれると著者はいいます。実際には、日本はまだまだ中間層がメインだと感じますが、諸外国でこうした貧富の差が開いていることは明らかです。

知識社会化・リベラル化・グローバル化

 産業革命は知識革命だったと著者は言います。産業革命により人口が爆発的に増加し、都市が生まれて権力が階層化しました。テクノロジーは指数関数的に進化して、理解するものから使いこなすものに変化していきました。今日の学校で取り入れられているタブレット端末などによるICT教育では、すでに知識の学習は無意味なものになりつつあります。知識は覚えるものから必要な時に検索するものになり、学習とは、テクノロジーをうまく使いこなして新しい価値を創造することに置き換わりつつあると感じます。こうして最先端のテクノロジーを理解して創造する少数の層と、それらをいかに使うかという使い方を学ぶ層にわかれていきます。デジタル難民は高齢者だけの話ではなくなってきました。

 テクノロジーの進化によって豊かな知識社会が到来すると、人々は共同体に属する必要が薄れ、より自由な意思で自己表現を目指すリベラル化を迎えます。そして国の枠組みを超えて個人が世界とつながるグローバル化していきます。

 一方でこうした知識社会に乗り切れない人々が多数発生します。知識社会では人々は出自や身分ではなく、知能によって分断されるのです。こうした社会では子供たちへの教育がその後の属性を決めることとなります。

 そして、知識社会はAIなどのテクノロジー技術の進展によって終焉を迎えるというのが著者のシナリオです。人工知能が人間の知能を超えるシンギュラリティが起きるのは2045年と言われていますが、そうなると、もう誰も機械の知能を超えることができず、知能のある人が偉いという価値観も失われてしまいます。こうなると、もう、子供たちへの教育は重要ではありません。近い未来に、私たちの価値観として何が重要になるのか、何が私たち自身の価値を決めるものになるのか、とても興味の湧くところです。とりあえず今は、知識社会からこぼれ落ちないように努力するしかないのでしょうね。

 

2024年5月5日 読了