ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

養老孟子『身体巡礼ードイツ・オーストリア・チェコ編』_感想

 

養老先生のヨーロッパお墓参り旅行記

 一言でいうと、養老先生がヨーロッパのお墓を巡りながら人間の身体性や死と生の関係を考察する旅行記です。だいたい、お墓を巡る旅行というのがユニークですが、養老先生の軽妙な語り口で、優しい言葉の中に深遠な思想が見え隠れもして、とても興味深く面白い書籍になっています。お墓への興味が湧いてくること間違いなし。ヨーロッパの美しい街並みとお墓の写真がたくさん載っていて、写真を眺めながら一緒にお墓巡りをしている気分になれるのも、なかなか面白いです。

死んだあとの体はモノなのかヒトなのか

 ヨーロッパのお墓(というか死体)が日本と大きく異なるのは、死後の体をモノとして扱うのか、ヒトとして扱うのかという文化の違いに大きく表れています。日本では、平安時代までは土葬が主流だったようですが、国土が狭いことや気候の影響もあり衛生面から考えても今では火葬が一般的です。人が亡くなると魂は体を離れて、体は単なるモノになる、火葬して骨に返すという思想があります。一方でヨーロッパでは土葬が主流で、死後も体と魂は切り離されずに人として残るという思想があります。

 ウィーンのハクスブルグ家の遺体は、心臓と内臓、その他の体の3つに分けられて、それぞれ別の場所に納められます。特に心臓は、美しい容器に入れて一族代々の心臓を祀った霊廟に安置されます。死後も一族の一員として存在が残り続けるのです。養老先生は、ヨーロッパの気候が「乾いた」文明を生んだこと、コロッセウムなどの建物に象徴されるように「ものが消えない」文化の中で人工物は残り続け、ヒトも残り続けるのではないかと考察します。一方で木と紙の文化の日本では、伊勢神宮遷宮に見られるように、建物は一定の期間を経て建て替えらえ、最初のものがずっと残るということはありません。同じではないけれど同じだと考えることで、儀式が受け継がれて文化として残っていきます。ゆえに死体は残す対象ではなく、残すのは魂であり、毎年のお墓参りや法要などの文化になるわけです。お墓から、こんなことが考察されるなんて、考えてもみませんでした。

お墓を見ながら死を考える

 本書の中盤では、お墓とは何か、を考えるなかで「死」というものの本質みたいなところに考察が進んでいきます。ボヘミアの納骨堂では、4万体もの人骨で装飾された骸骨の館があります。なぜ、納骨堂のようなものを作るのか、これは人骨を大切にしているのか、そうではないのか。養老先生は考えます。誰のものかも分からないたくさんの骨、それを柱や天井の装飾の一部として鑑賞物にしてしまう感覚、そういったことから、ヨーロッパにおけるお墓の役割が見えてくるようです。

 ヨーロッパでは死んだあとも体は残り一族の一員として存在し続けます。墓地は死んだ人々の都市のようだと養老先生は考えます。墓石に写真がついていても不自然じゃないのかヨーロッパの墓地であると。(実際に生前の写真がついたお墓もあるらしい)

 日本のお墓とは少し感覚が違いますね。納骨堂のように骨を見える形で残すことも、死が生きていることの延長に存在し続けるからでしょうか。死は分断ではないようです。メメントモリ、死を忘れるなかれ、という思想が納骨堂にも墓石にも刻まれています。

 お墓を見て何を思うのか。養老先生は、欧州のお墓は「生臭い」と表現します。土葬なので実際に死体のにおいがすることもあるようですが、墓として現実的すぎて、生臭いなあと表現しています。そこでは死は観念になっておらず、人は死んでも人として残っているようです。日本のお墓はどうでしょうか。お墓参りをして人の気配を感じることはないですね。そこに感じるのは人ではなく、もっと大きな「ご先祖様全般」みたいな自分のルーツのずっと向こうにある何か敬虔なものです。墓は人工物であるから、それは一種の情報だと養老先生は言います。誰かがそれを見ることを前提にデザインされているもの。お墓の伝えるメタ・メッセージは何か。もちろんそれは見る側の受け止めによって異なるわけですが、養老先生にとってのお墓のメタ・メッセージは「人はいずれ死ぬ」ということだと言います。そして、それは単なる事実。死ぬ話に面白い結論はない、とのこと。おっしゃるとおりです。

 

2024年4月30日 読了