ROBOBO’s 読書記録

読んだ本の感想です。

ケヴィン・ケリー『5000日後の世界 すべてがAIと接続された「ミラーワールド」が訪れる』_感想

 

「ビジョナリー(予見者)」。本書の著者、ケヴィン・ケリーはしばしばこう称される。
テック文化を牽引する雑誌・米『WIRED』の創刊編集長を務めた著者は、GAFAなど巨大企業による「勝者総取り」現象など、テクノロジーによって起こる数多くの事象を予測し、的中させてきた。

テクノロジーがもたらす未来

雑誌WIREDを初めて読んだとき、尖がったコンテンツの面白さとセンスの良さにすっかり夢中になりました。シンギュラリティという言葉やディープラーニングという言葉も、まだ目新しかった時代。著者は、そのWIREDの創刊編集長ということで、現在の様々な現象を予見してきた方です。

本書は今から13年後のとても近い未来の予想図が描かれています。すべて、なるほど、確かにそうなっているかもしれない、と共感する内容です。

特に、気になったのは「食べ物」の未来。本書によると、近い未来にはお肉は人工的に培養されて、農村には無人ラクターが走り、AIが作物の成長を監視して適切な処置を行い、収穫はロボットが行うとなっています。すでに一部のテクノロジーは実用化されていて、野菜や果物も工場で作られたものをよく見かけるようになりました。

学び方を学ぶスキルが必要だ

本書に書かれていることは遠い未来の話ではなくで、ほんの十数年後のことです。何もしなくても、いつの間にか本書に書かれていることが当たり前になっているのかもしれませんが、やはり私たち自身もどんどん変わり続ける必要があるのだと感じました。

それが端的に現れてきているのが教育の分野だと思います。今の子どもたちは画面を観ればスワイプし、グーグルに話しかけて、学校ではタブレットミラーリングしてクラスのみんなに動画で発表する、という日常を送っていますので、基本的に私たちとは違う大人になるだろうと思います。まさにテクノロジーが人間の在り方を根底から変えてきているように感じます。

そうしたテクノロジーの進歩が加速し、不確実なことが多くなる世界においては、小学校から高校までの初等教育で「学び方を学ぶ」という汎用性の高いスキルを身に着けることが大切になると筆者は言っています。

テクノロジーの進歩に合わせて変化する社会の中で、何度も学びなおして、自分自身を最適化していくことが必要になるようです。だからこそ、学校は幅広い分野に興味を持てるジェネラリストを育てることが必要ですし、身に着けたものを手放して何度でも新しいことを受け入れるマインドを育てないといけないのだと思いました。

失敗したら戻ればいい

日本はとかく失敗を嫌う文化だと思いますが、これから先のテクノロジーが牽引する社会では、小さな失敗を繰り返してトライ&エラーを重ねて、今日よりも少しだけいい明日を作っていくスキルが重要です。変化する時代に、形を決めることそのものが、もはやナンセンスなんですね。試しながら修正しながら作っていけばいいんだと思います。

本書は、テクノロジーのもたらす未来を予測するということで、ビジネス向きの本かと思いましたが、ケヴィン・ケリーが言いたかったことは、少しづつ失敗しながらヒトは良くなっていくんだよ。ということだったように思います。

北京オリンピックの選手たちの勇姿を見ながら、しみじみと読了しました。

 

2022年2月12日 読了

 

ティエン・ツォ著『サブスクリプション「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル』_感想

 

モノが売れず、すべてがサービスとして提供される時代には、顧客との長期的なリレーションシップが成長の鍵となる。

新しいビジネスモデルとは

サブスクと聞くと、単純に定額課金ビジネスのことだと思われる方が多いと思いますが、本書は良い意味でもっと深い概念を説いた書籍です。

これまでのビジネスがモノを作って誰だかわからない顧客に広く販売することだったとすると、サブスクリプションは顧客を中心に据えた全方向サービスの提供を目指すモデルであり、顧客が成長すればするほど、供給するサービスの質も上がり、ビジネスも発展する。ということが書かれています。

考えてみると、私たちのデジタルライフは実に多くのサブスクに頼っていて、アップルのストレージはいつの間にか大容量プランで課金しているし、アマゾンプライムは便利すぎて解約するなんて考えられないし、とにかく少なくともデジタルの面においては、これまでのようにモノを購入して所有する必要性を感じないようになっています。

あらゆる業界が、モノを売るのではなくてサービスを提供するという見方に立てばサブスクへとモデルシフトできると著者は説いています。そして、モノを所有しない時代の唯一の消費がサービスであるということです。

永遠のベータ版

著者は、Gメールが世に送り出されたとき、もうほとんど機能としては完成していたにも関わらず、ずっとベータ版という表記が残されていたことを引き合いに出して、完成した商品を売るのではなく、顧客のニーズに合わせてサービス内容を変えていくことの重要性を繰り返し書いています。顧客起点で商品を変えていくことにより、顧客が上向きの時も下向きの時も、常に最適のサービスを提供することで、顧客との関係を続けていくことができるとと説いています。そして、そうした顧客中心のサービスは、現在のようなIoTが実現したからこそ可能になったというわけです。サービスを使えば使うほど、私たちの行動履歴はデータとしてサービス提供企業に蓄積されていくことになります。つまり、どんなビジネスも小さく始めてデータを集めていけば、まるで人工知能が学習をするように少しづつ成長していけるというモデルなのです。

これは、なかなか斬新な考え方だと思いました。永遠に完成しないことこそが完成形なのですね。

どんな分野にも適用できるのか

読み進めるうちに気になってくるのは、例えば行政や教育など単純にサービスを提供するだけではない分野にも、このモデルが使えるのだろうか、という点でした。

サービスと対価の流れが明確であれば、サービスの使い手の成長によってサービスの供給側も大きくなる、という理論は理にかなっていると思いますが、果たして、行政サービスと住民のような収益性のない関係においてもこのモデルは有効でしょうか?

この辺りは、これからじっくりと考えてみたいと思います。普段はあまり考えたことのなかったビジネスモデルというものを、もう少し見聞を広めて学んでみようかと思いました。

 

2022年2月8日 読了

デイヴィッド・イーグルマン『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』_感想

 

私たちの行動をコントロールしているのは「自分の意識」ではなかった! 例えば衝突の危険をはっきり認識する前に、足は車のブレーキを踏んでいる。脳はたいてい自動操縦で動いており、意識は遠いはずれから脳の活動を傍観しているにすぎないのだ。だが、自覚的に制御することができないのなら、人間の行動の責任はどこにあるのか? 意識と脳の驚くべき働きを明かす最新脳科学読本。『意識は傍観者である』改題文庫化。

意識は氷山の一角

脳の働きについて知りたいと思い気軽に読み始めた本書ですが、なかなか読み応えのあるハード系の脳科学本でした。ですが、専門用語は少なく、図解や事例がたくさん挙げられているので素人でも無理なく理解できます。

さて、本書の中で大きな衝撃を受けるのは、私たちの意識はほとんど脳内の活動を認知していない、ということです。私たちの多くの活動の裏側には、とても複雑なニューロンの働きがあるわけですが、意識はそれらをほぼ感知していません。AIがチェスで人間を破ったことは人工知能の発展として有名な話です。AIのワトソンはチェスの一手を計算するために、かなり大量のエネルギーが必要だったそうですが、対する人間の脳はほとんどエネルギーを消費せずに複雑な計算を無意識にこなしてしまいました。脳は一度習得した活動は無意識に行えるように設計されているようです。意識が必要とされるのは、何か問題が起きた時、いつもとちがう対処が必要なときのみで、私たちは実に多くのことを無意識にこなしており、意識は私たちの氷山の一角に過ぎないのです。

では、考えている私とは

ここから話題は少し哲学的でダイナミックになっていくのですが、では、「意識のある私」が私のほんの一部なのだとしたら、何かを選ぶ私、判断する私とは、本当に私なのか?私という意識が関与する行動なのか、思考なのか?という疑いが出てきます。

筆者は様々な犯罪者が精神疾患や脳腫瘍のために犯罪に及ぶ例を挙げています。裁判で裁かれるのは、「行動に責任を負うべきか」ということですが、精神疾患の結果として犯罪を犯すことは、本人に「考える」余地がなく不可抗力だったといえます。つまり、人の思考や行動は意識の知らない脳の活動で決まるという理論を踏まえるならば、犯罪行為は行為者にはどうすることもできなかったという主張が説得力を持ってきます。さらに、現在の法制度において、犯罪者の有責性を問うことは無意味だとして、犯罪者の更生に重点を置く刑罰制度を提唱します。この辺りはかなり大胆な論説ですが、犯罪者のほとんどが精神鑑定によって減刑されている現実を見ますと、あながち間違いではないように思います。

ブレイン2.0の時代へ

本書の冒頭で、筆者は脳の可逆性と問題が解決しても繰り返し別の解決ルートを探る性質に触れて、将来的には赤外線や紫外線の映像、天候データや市場データなど、新しいデータストリームを直接脳に差し込めるかもしれない、と言います。

犯罪者の更生に着目するという点で、ロボトミーという前頭葉の切断手術によって人格を変える方法が紹介されていますが(筆者はロボトミーでは不十分という立場です)、もし、私たちの意思が「脳」の在り方に左右されるものだとしたら、物理的に脳を変化をさせたり、新しい形式のデータを注入できるようになることによって、私たちそのものを変えることが可能なのかもしれません。人間の倫理感だとか、他者を思う心だとか、誰かを愛する気持ちだとか、そういうものの根底が何によるのか…ますます分からなくなりますね。

そんなわけで、「脳」や「意識」についてとても深く考えさせられた一冊でした。久しぶりに意識を総動員して読み上げたのでした。

 

2022年1月30日 読了

 

岡嶋 裕史『メタバースとは何か~ネット上の「もう一つの世界」~』_感想

 

フェイスブック社が社名を「Meta」に変更すると発表した。「Meta」とは「Metaverse=メタバース」の「Meta」である。では「メタバース」とは何か? ITに関するわかりやすい説明に定評のある岡嶋裕史氏(中央大学教授)が、その基礎知識から未来の可能性までを解説。「メタバース」は第四次産業革命に匹敵する変革を我々の日常にもたらすのか? はたまた、ただのバズワードで終わるのか?

世界を圧巻するGAFAMの次の商機が仮想空間

生活に未着している企業と言えば、もちろん地元の会社もたくさんありますが、本書に登場する、グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン・マイクロソフトはもはや不動の地位だといえます。

本書はこれらの企業が、SNSの次にやってくるとされるメタバース(仮想空間なのか拡張ARなのかミラーワールドなのかで若干違いがありますが)においてどのように主導権を握ろうとしているのか、その方向性が分かりやすく書かれています。

私たちの生活にインターネットやSNSは欠かせないものですが、もし、ゲームのフォートナイトやあつ森の中で、働いたり学んだりすることが可能になれば、リアルよりもずっと過ごしやすく、自分の心地よいものだけに囲まれた世界で生きることが可能になるかもしれません。メタバースはその可能性を提示する「もう一つの世界」になりうるものだと筆者は言います。

誰もが自分の正義を持つ世界

現在社会は個々の多様性が何よりも重視され、「人と違ってみんないい」ことが強く推奨されている社会です。しかし、「自由」と「平等」は、実は相性が悪いのだと筆者は言います。個々が自由にふるまえば必ず個体差が生じて平等にはなりませんし、全体を平等にしようと思えば自由が制限されてしまいます。現在は、誰もが自分自身の規範を作り、それをもとに自分だけの正義を持っている時代ですが、対立する関係にあっては、私の正義はあなたの不正義になりかねないと筆者は警告しています。そこで相手に折れることは、自分の正義を失うこと、つまり自分のアイデンティティが迷子になることと同じなので、私たちは戦いつづけるしか道はないのです。

そんな時に、自分と同じような価値観や意見を持つ人だけで構成される世界があったら、どんなに魅力的でしょうか。もうその世界に沈み込んで、出たくなくなるのではないでしょうか。そこが安全で快適で仕事もできて自分自身が認められる世界であったなら、もうリアルは必要ありませんね。

リアルと仮想のハイブリットか、まったく別の世界か

フェイスブックは社名をメタに変更して、現実世界とは異なる仮想空間を構築することで商機を生み出そうとしています。これに対して、アップルやグーグルは、仮想と現実とのハイブリットな社会で存在感を示そうとしているようです。マイクロソフトに至っては、ハイブリットな社会の企業活動への進展において、アマゾンは仮想だろうがリアルだろうが、必要とされる商品を手堅く売る、というふうに、それぞれ思惑は違っているようですが、いずれにしても、リアルとは違う世界が今後ますます重要になっていく点はどの企業も同じ認識のようですね。

子どもたちに聞いてみますと、例えば、ゲームの世界で学校に行って卒業して、その中で仕事も見つけるのであれば、それで十分だと言います。特に、急速にコロナとGIGAが合わせ技で子どもたちの環境を大きく変化させている中で、仮想現実に全く違和感を感じないようです。

そんなに遠くない未来に、グーグルグラスをつけて仕事をしたり、メタバースで副業をしたりしている社会が現実になっているように思います。それは、そんなに違和感のある突飛な取り組みではなくて、なるべくしてなるというか、実は誰もが求めている社会なのかもしれないと思います。

今のリアルが少し息苦しく思うのは、自由が重くなりすぎていて、夢が溢れすぎていて、人と違うことが求められすぎているからかもしれません。何者でもないただの自分が、大きな声を挙げなくても存在できる世界に憧れているのかもしれませんね。

昨今のトレンドワードである「メタバース」について、大変勉強になる一冊でした。

 

2022年1月24日 読了

 

松尾 豊『人工知能は人間を超えるか』_感想

 

グーグルやフェイスブックが開発にしのぎを削る人工知能。日本トップクラスの研究者の一人である著者が、最新技術「ディープラーニング」とこれまでの知的格闘を解きほぐし、知能とは何か、人間とは何かを問い直す。

学習するとは

本書が刊行された2015年頃に、とある雑誌でシンギュラリティが特集されていて、映画の世界がついに現実味を増すのか!と夢中で読んだ覚えがあります。それから8年。世界は着実に変わりつつありますが、改めて本書を読むと、時代のおさらいといいますか、当時に著者が予測していた5~10年後の未来が現実になっているな、と思います。人工知能についてこれ程わかりやすく書かれた本は他にないのではないでしょうか。

まず、一つ目のポイントは「学習する」ということ。

そもそも学習とは何か。どうなれば学習したといえるのか。学習の根幹をなすのは「分ける」という処理である。ある事象について判断する。それが何かを認識する。うまく「分ける」ことができれば、ものごとを理解することもできるし、判断して行動することもできる。

人間もコンピューターも「学習する」ことの根底には「分ける」という処理だと著者はいいます。分けるためには、それが何かを認識することが必要で、ディープラーニングというのは簡単に言うと「それが何かを認識する」ことをどんどん概念化していってコンピューターが自ら類推できるようにすること。のようです。

私たちの脳も同じようなことを無意識に行っていて、赤ちゃんの脳はものすごいスピードで認知を繰り返して成長していきます。生物は、もともとは生きるために危険があるのかないのか、食べられるのか食べられないのか等、自分の周りの世界を1と0に分けて理解をしています。生物の神経細胞の広がりとコンピューターの演算がとても似ていることに驚きます。

人工知能は本能を持たない

では、ディープラーニングにより自分で世界を認識できるようになったコンピューターが、映画のターミネーター2001年宇宙の旅のように意思を持つ可能性があるのかというと、それは限りなくゼロに近いと著者は言います。自分自身を複製したいという欲求をコンピューターが持つためには、生命の持つ強い意志=本能が生まれる必要があり、現時点でのディープラーニングがその土台になるものではないということでしょう。

しかしながら、様々な分野にAIが導入されて、人々の生活は様変わりしてきました。電子決済は当たり前になりましたし、無人レジ無人運転、AIのオペレーションなどは生活に溶け込んでいます。いずれはAIなしには生活が立ち行かなくなっていくのではないかと思います。どうやら心配すべきはAIの暴走ではなく、AIをオペレートする人間の暴走のようです。戦争がAI同士で繰り広げられることになったらどうなるのでしょうか。

Hey,SiriとOK google!

人間とコンピュータの協調により、人間の創造性や能力がさらに引き出されることになるかもしれない。

人間とコンピューターとの融合が少しづつ進んでいるように思います。人間の脳とコンピューターが電子信号で動くという共通点を考えると、脳の中にコンピューターを入れる日も遠くはないのかもしれませんね。

近い将来に仕事がAIに置き換わってしまうのではないかと危惧する気持ちもありますが、学習するということにかけてはコンピューターのほうが得意ですが、創造性についてはもうしばらくは人間のほうが勝っているように思います。

AIが人間の身近なパートナーとして、これからますます生活を支えてくれることでしょう。私たちは、`siri‘に聞くだけじゃなくて自分自身の脳にも問いかけなくては、と思いました。

これからの未来を担う子どもたちに、人工知能のことをもっと知ってほしいな、と思います。それは人間の知能を知ること、これからの社会の生き方を探ることと同義ですね。

本書は、中学生の子どもも十分に理解できる内容だと思います。お勧めの一冊です。

 

2022年1月23日 読了

 

橘玲『無理ゲー社会』_感想

 

きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)をたった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。

知能と努力で成功できる社会

誰もがそこそこに生きて、そこそこに幸せになりたいと思い、子ども達にも当然のように大学までの教育を受けさせて「あなたらしさ」を大切にしなさい、と教えているのが私たちです。それは生まれや人種や性別で人生を決められることがなく、自分の知能と努力次第でなりたい自分になれる社会だと信じているからです。

一方で、人生に失望して死にたいと望む人が思いもよらない事件をおこす報道を頻繁に目にするようになりました。先日の、大学入学共通テストの朝に東大前で17歳の高校生が受験生を切りつけた事件は衝撃的でした。高校生は「自分も死のうと思った」と言っているようですが、本当の死はもっと孤独で静かに進みます。高校生は事件を起こすことで何かに気づいてほしかったのだろうと胸が痛くなりました。

著者は、知能と努力で自分らしく生きていけるという社会が、若者を追い詰めていると警告しています。それは逆転不可能な無理ゲーなのだと。

誰もが「自分らしく」生きる社会では、社会のつながりは弱くなり、わたしたちは「ばらばら」になっていくのだ。

画一的で個々の自由がなかった社会では「自分らしさ」を見つけることは自由の謳歌や個人としての成熟を約束したかもしれませんが、多様化が進み、人と違っていることが当たり前になった現代では、「自分らしく」あることが陳腐化しているようです。

努力をしたけど、無理だった。ということを身に染みて知ってしまったとき、誰のせいにもできず逃げ場のない「無理ゲー」社会を生き続けることになるのです。

子どもたちは溢れる夢の洪水に溺れそうだ、と著者は言います。

持つ人はたくさん持ち、持たない人は少ししか持たない 

そんなわけで、社会の二分化がますます進み上流国民と下流国民に分かれる、というのが著者の考えです。

本書の中には、その解決策もいくつか提示されていますが、富の再配分という観点ではベーシックインカムや富裕税を導入したとしても、人々の評判までを再配分することは不可能なため、結局は富ではない(もっと過酷な)ものの分断が起こると警告します。

本書の後半では、テクノロジーの進歩によって、こうした問題が解決可能かもしれない、という提示がされています。それは、たいそうSF的な響きの提案ですが、案外、近い将来に実現しているかもしれないと思いました。

ばらばらになったものは、別の形でまた一つになるのかもしれません。そうなると、もう「自分らしさ」は必要なく、本当の意味で何者でもない自分に解放されるのかもしれませんね。それは十分に豊かで安全で苦悩のないディストピアな社会の到来です。

納得もしつつ、少し心がざわつく読了でした。

 

2022年1月17日 読了

 

リンダ・グラットン他『ライフシフト‐100年時代の人生戦略』_感想

 

長ーい人生を生きるために

2016年に発刊されて以来ベストセラーになっている書籍ですが、ようやくじっくりと読むことができました。

本書で書かれている内容はここ数年のコロナ禍で更に加速したような気がします。医学が進歩し、人々が衣食住を満たす生活を送れるようになったことで、健康寿命がどんどん延びていて、私たちの子どもの世代には100歳まで生きる世界になっているだろう。そんな時代に今まで通りの人生設計ではやっていけないぞ。今から意識を変えて100歳まで生きる準備をしなくては。ということが書かれています。

私が特に共感したのは、リ・クリエーション(再創造)の必要性です。

人生100年となると、65歳で定年退職してる場合ではありませんね。もっと働かなくては、あまりにも老後が長くなりすぎてしまいます。自分のスキルが使えるのは今の仕事の範囲内だけで、この先、長く働くためには、もう一度、自分の身の振り方を再考する必要があります。自分には何ができるのか、強みは何か、それを考えて学びなおす時間が必要だと著者はいいます。

16年間も学ぶけど…

重要になるのは生涯教育だと思います。今の日本ではたいていの人が小学校6年、中学・高校で6年、大学で4年間は学ぶことになっていますが、それ以降は、自分を作り変えるために学ぶという行為をほとんどしていません。

仕事に必要なスキルは、どちらかというと働きながら習得していくのですが、基本的な地頭といいますか、物事の見方や考えるベースとなる思考の組み立て方など、子どものころに身に着けたはずのそういった力は、社会人になってから増強する機会はほとんどありませんよね。それでも、同じ仕事を続けるのであれば特に困らないわけですが、65歳を越えても有用感のある仕事を続けようと思うと、若い時に身に着けたスキルだけでは足りなくなるよ、ということです。

曖昧さを嫌わない態度を

例えば、今の仕事を定年退職した後に、何か違うことをして生きていこう、と思ったときに、自分の棚卸をするわけですけど、「あれ?なんもなくない?」と思ってしまいます。確かに、今の仕事ではそれなりに経験もあり、家族もいて、衣食住も足りているし、特に不満はないわけですが、その枠組みが外れたら、自分の価値ってなんだろう?と途端にわからなくなってしまいました。

新たな自分探しが始まるわけですね。

学生のころ、まだ何もなかった自分に大きな不安を抱えていて、仕事や家族を持つようなって、選択肢が少しづつ削られてきて、ようやく安心していたのですが、今度はその逆バージョンを生きるということです。持っていたものを少しづつ手放して選択肢を増やしていくという。

そして、リ・クリエーション(再創造)には、曖昧さを嫌わない態度、柔軟性、未知の活動に前向きな姿勢が大切だと著者はいいます。硬くなった頭をほぐさなくてはいけませんね。

幾つになっても新しいことを

学びなおしと言いましても、何から始めたらよいのかわかりませんが、とりあえず手っ取り早いのは「本を読むこと」「仕事関係以外の人と交流すること」かな、と思います。自分はこうである、こうでなくてはならない、という殻を取り払ってしまえば100年ライフも悪くないと思いました。

長い人生を幸せに生きるために、もう一度漂流したり迷ったり無駄なことをしたりする準備をしようと思えた書籍でした。

 

2022年1月15日 読了